長女は今、学校へ行っていません。
昼を過ぎても、泥のように眠っている日があります。
声をかけても、少し目を開けるだけで、また眠ってしまう。
その姿を見ていると、学校へ通っていた時間に、どれほど心と体を緊張させていたのだろうと思います。
一方で、妹と楽しそうに遊んでいる日もあります。
笑ったり、ふざけたり、好きなことの話をしたり。
そんな姿を見ると、少し安心します。
でも、安心した直後に、別の不安が顔を出します。
こんなに元気なら、学校へ行けるのではないか。
家では笑えているのに、どうして学校には行けないのだろう。
頭では、家で元気に過ごせることと、学校へ行けることは別だと分かっています。
それでも親の心は、そう簡単には整理できません。
元気な姿を見ると、回復したように思ってしまう
不登校になった子どもが家で笑っていると、周りからは元気そうに見えるかもしれません。
ゲームをしたり、動画を見たり、きょうだいと遊んだり。
本当に苦しいのだろうかと思われることもあるのでしょう。
親である私自身も、そう思いそうになる瞬間があります。
昨日は一日中眠っていたのに、今日は妹と笑っている。
その差が大きいほど、何が本当の姿なのか分からなくなります。
けれど、どちらかだけが本当なのではないのだと思います。
泥のように眠る長女も、妹と笑う長女も、どちらも今の長女です。
安心できる家の中だから笑える日がある。
疲れが出て、何時間でも眠らなければならない日もある。
回復は、毎日少しずつ右肩上がりに進むものではないのかもしれません。
元気に見えた翌日に、また動けなくなることもある。
少し前に進んだと思ったら、立ち止まることもあります。
その揺れを繰り返しながら、心と体は自分の速度を取り戻しているのだと思います。
親は、つい先のことを考えてしまう
長女は、転校について考え始めています。
本人の希望もあり、通学できそうな範囲の中学校を候補にしています。
ただ、実際に合う場所かどうかは、見学してみなければ分かりません。
今の学校で、安心して過ごせるように環境を調整できるのか。
それとも、環境そのものを変えたほうがよいのか。
児童相談所や相談支援事業所、学校とも話し合いながら、これからの方向を考えていく予定です。
そう書くと、落ち着いて順番に進めているように見えます。
けれど、私の頭の中はいつも先へ先へと動いています。
転校するなら、いつがいいのか。
見学はいつ行くのか。
次の学校でも合わなかったらどうするのか。
勉強の遅れはどうするのか。
このまま家から出なくなったらどうしよう。
まだ起きていないことまで考えて、できることを全部探したくなります。
調べる。
問い合わせる。
支援先を探す。
学校に相談する。
動いている間は、不安が少し薄まるからです。
けれど、私が先回りして道を作りすぎると、長女が自分で考える時間まで奪ってしまうかもしれません。
そのことも、最近ようやく考えられるようになりました。
見守ることは、何もしないことではない
私は昔から、問題が起きると解決したくなるほうです。
困っているなら、方法を探したい。
傷つく可能性があるなら、先に取り除いておきたい。
子どものことなら、なおさらです。
だから、「見守る」という言葉が、以前は少し苦手でした。
何もせずに待っているように感じたからです。
でも実際にやってみると、見守ることは決して楽ではありません。
言いたい言葉を飲み込む。
すぐに答えを出さない。
子どもが自分の気持ちに気づくまで待つ。
失敗するかもしれない道でも、本人が選ぼうとしているなら考える時間を渡す。
何かをしてあげることより、手を出さずにいるほうが難しい日もあります。
長女が眠っていると、起こして生活リズムを整えたくなります。
元気に遊んでいると、今なら学校の話をしても大丈夫ではないかと思います。
転校したいと言えば、すぐに見学の予定を組みたくなる。
そのたびに、一度立ち止まります。
今、この子に必要なのは、私の答えだろうか。
それとも、自分の答えを見つけるための時間だろうか。
そう自分に問い直しています。
家で笑えることは、学校へ戻る準備とは限らない
家で笑っている姿を見ると、回復が進んでいるように感じます。
実際、安心して笑える時間が増えることは、心にとって大切なことだと思います。
ただ、それをすぐに「次は学校へ」と結びつけないようにしたいとも思っています。
家は、何かを達成するための訓練場所ではありません。
眠ることも、笑うことも、好きなことをすることも、学校へ戻るためだけにあるのではない。
今日を生きるために必要な時間です。
不登校になると、暮らしのすべてが「登校できるかどうか」で測られそうになります。
朝起きられた。
外へ出られた。
人と話せた。
本当ならそれだけで十分なことなのに、親はつい「それなら学校にも」と考えてしまいます。
けれど、長女の一日は、学校へ行くためだけにあるわけではありません。
今は、学校から離れた場所で、自分の感覚を取り戻している途中なのかもしれません。
妹と笑う時間に救われているのは、私も同じ
長女が妹と笑っている声が聞こえると、家の空気が少しやわらかくなります。
次女にも学校で抱えているものがあり、姉妹それぞれに違う苦しさがあります。
それでも、二人で遊んでいる間は、ただの姉妹に戻ります。
学校のことも、支援のことも、先生のことも、その瞬間にはありません。
くだらないことで笑って、言い合いをして、また一緒に遊ぶ。
私はその姿を見ながら、子どもには子どもの世界があるのだと思います。
親がすべてを理解しなくても、親がすべてを整えなくても、二人の間に流れている時間があります。
そのことに、私のほうが救われています。
今は、答えを急がない練習をしている
今の学校に残るのか。
転校するのか。
いつ動き出すのか。
まだ、はっきりした答えはありません。
話し合いの予定もあり、これから相談しなければならないこともたくさんあります。
ただ、今すぐすべてを決めなくてもいいのだと思えるようになりました。
学校に行っていない時間も、長女の人生は止まっていません。
眠っている時間にも、見えないところで回復しているものがあるかもしれない。
妹と笑っている時間には、安心や楽しさを取り戻しているのかもしれません。
親にできることは、正しい道へ急いで連れていくことではなく、本人が動こうとしたときに一緒に考えられる場所でいることなのだと思います。
私は今も、先回りしたくてむずむずします。
何かを調べ、誰かに連絡し、次の手を打ちたくなる。
それでも今日は、一歩だけ後ろに立ってみます。
泥のように眠る日も、妹と笑う日も、どちらかを否定せずに見ていたい。
回復を急がせるのではなく、長女が自分の速度を取り戻すまで待ちたい。
見守ることは、何もしないことではありません。
信じながら待つこと。
必要なときに動けるよう、そばにいること。
そして、子どもの人生と自分の不安を、少しずつ分けて考えること。
今の私にとって、それがいちばん難しくて、いちばん大切な練習なのだと思います。
