子どものことで悩むと、いろいろな専門家に相談します。
医師。
学校の先生。
相談支援。
児童相談所。
福祉の人。
心理士。
それぞれの立場から、必要なことを伝えてくれます。
どの言葉も、きっと子どものためを思ってのものだと分かっています。
でも、分かっていても、すぐに受け取れない言葉があります。
「今は無理をさせない方がいい」
「学校の話はしない方がいい」
「本人の気持ちを待った方がいい」
「お母さんも割り切ることが必要です」
「まず安心が先です」
頭では理解できる。
言っている意味も分かる。
でも、親の心はそんなにすぐ追いつかない。
今日は、専門家の視点と親の感覚のあいだで揺れることについて、今の自分の記録として残しておきます。
専門家の言葉が、すぐに心に入らないことがある
専門家のアドバイスは、冷静です。
全体を見て、経験や知識に基づいて、必要なことを言ってくれます。
その視点は大事です。
親だけでは見えなくなることもあるし、感情に飲まれたままだと判断できないこともあります。
でも一方で、親は毎日の暮らしの中にいます。
朝、起きるかどうか。
学校に行くかどうか。
放課後デイに行けるかどうか。
食べるか、寝るか、泣くか、怒るか。
きょうだいの間に入るか、仕事に間に合うか。
その全部が、生活の中で同時に起きます。
だから、専門家の言葉が正しいと分かっていても、
「それを現実の中でどうやるの?」
と思ってしまうことがあります。
たとえば、「見守りましょう」と言われても、親としてはその間に学習の遅れが気になります。
「今は安心が先です」と言われても、将来の生活や進路が頭から離れません。
「学校という言葉を使わないで」と言われても、義務教育の中で何もしないことが怖くなります。
専門家の言葉を否定したいわけではありません。
ただ、親の中でその言葉が暮らしに落ちるまでには、時間がかかるのです。
相談に行くほど、情報が増えて混乱することもある
相談すれば楽になる。
そう思って動くことがあります。
でも実際には、相談に行くほど情報が増えて、頭の中がいっぱいになることもあります。
医師は医療の視点で話します。
学校は教育の視点で話します。
福祉は制度や支援体制の視点で話します。
心理士は発達や心の状態から見ます。
それぞれの言葉は間違っていない。
でも、それを家庭の生活に落とし込むのは親です。
しかも、子どもが一人ならまだしも、姉妹二人それぞれに特性も状態も違います。
片方には「見通し」が必要。
片方には「感覚のケア」が必要。
片方は言葉に傷つきやすく、片方は体の不快感で爆発しやすい。
同じASD・ADHDでも、同じ対応ではうまくいかない。
専門家のアドバイスを聞いたあと、私はいつも頭の中で組み直しています。
これは長女に合うのか。
これは次女に合うのか。
家で実際にできるのか。
仕事の時間と両立できるのか。
私の体力で回せるのか。
相談は必要です。
でも、相談のあとに自分の中で整理する時間も、同じくらい必要なのだと思います。
机上のアドバイスと、現実生活は違う
アドバイスとして聞くと、とても納得できることがあります。
選択肢を減らす。
見通しを作る。
本人の気持ちを聞く。
感覚刺激を減らす。
休憩を入れる。
無理をさせない。
親も抱えすぎない。
どれも大事です。
本当にその通りだと思います。
でも、現実の生活では、それがきれいにできない日があります。
朝の出勤前に癇癪が起きる。
玄関で座り込む。
姉妹が同時に不安定になる。
学校から連絡が来る。
仕事の時間が迫る。
買い物も夕飯も洗濯も残っている。
そんな中で、毎回ていねいに対応するのは難しい。
頭では「まず落ち着かせる」と分かっていても、
こちらも時間に追われて、強い言い方になってしまうことがあります。
あとから後悔する。
またやってしまったと思う。
専門家の言うようにできない自分を責める。
でも、机上で考える支援と、生活の中で動かす支援は違います。
正しい方法を知っていることと、毎日それを実行できることは同じではありません。
ここを分けて考えないと、親はどんどん苦しくなります。
子どもは日々変わる
さらに難しいのは、子どもが日々変わることです。
昨日できたことが、今日はできない。
先週よかった方法が、今週は効かない。
朝は平気そうだったのに、夕方に急に崩れる。
学校の話ができる日もあれば、言葉にしただけで固まる日もある。
親は毎日、同じ子を見ているようで、同じ状態の子を見ているわけではありません。
だから、専門家からもらったアドバイスも、固定の答えにはなりにくい。
その日の体調、睡眠、感覚、学校との関係、きょうだいの状態、家庭の空気。
いろいろなものに左右されます。
「この対応が正解」と決めたい。
でも、現実は正解より調整の連続です。
その調整を毎日しているのが、親なのだと思います。
突然、虚無感に襲われることがある
いろいろ相談して、調べて、動いて、整理して。
それでも、ふとした瞬間に虚無感に襲われることがあります。
私は何をしているんだろう。
こんなに動いて、何か変わっているのかな。
結局、最後に抱えるのは私なんだな。
誰かが助言はしてくれても、毎日の生活を回すのは私なんだな。
そんな気持ちになる日があります。
専門家はそれぞれの場所から支えてくれます。
それは本当にありがたいことです。
でも、最終的に決断するのは保護者です。
どの支援を使うか。
学校に何を求めるか。
休ませるのか、促すのか。
相談するのか、待つのか。
家庭でどう対応するのか。
そして、その結果を引き受けるのも、主に親です。
多くの場合、母親です。
この重さは、外からは見えにくいものだと思います。
それでも、専門家の言葉を自分の中で育てていく
専門家のアドバイスを、その場ですぐに受け入れられなくてもいいのかもしれません。
一度は反発してもいい。
納得できなくてもいい。
「そんな簡単に言わないで」と思ってもいい。
時間が経ってから、少し分かることがあります。
あの時の言葉は、こういう意味だったのかもしれない。
今の子どもの状態には、少し合うかもしれない。
全部は無理だけど、一部だけなら取り入れられるかもしれない。
専門家の言葉をそのまま飲み込むのではなく、
自分の家庭に合う形にしていく。
それは、親にしかできない作業なのかもしれません。
親の感覚も、専門家の視点も、どちらも必要
親の感覚だけでは、見えなくなることがあります。
感情が強くなりすぎて、全体が見えなくなることもあります。
でも、専門家の視点だけでは、日々の生活の細かさまでは拾いきれないこともあります。
だから、どちらかが正しいというより、両方が必要なのだと思います。
専門家の視点は、外からの地図。
親の感覚は、毎日の足元の感覚。
地図だけでは歩けない。
足元だけ見ていても、方向を見失う。
その間で揺れながら、少しずつ進むしかないのだと思います。
最後に決めることの重さ
相談する。
助言をもらう。
制度を調べる。
学校と話す。
支援者と共有する。
それでも最後は、家庭でどうするかを決めなければいけません。
その決断は、いつも自信を持ってできるわけではありません。
むしろ迷いながら決めることの方が多いです。
でも、迷っているということは、真剣に考えているということでもあります。
子どもを放っておきたいわけではない。
支援を拒否したいわけでもない。
ただ、現実の生活の中で、本当にその子に合う形を探している。
その苦悩を、もう少し自分で認めてもいいのかもしれません。
今日の結論は、まだありません。
ただ、専門家の視点と親の感覚のあいだで揺れながら、
それでも毎日、子どもたちの暮らしをつなごうとしている。
今日は、この記録をここに置いておきます。
