子どもに発達特性があると分かってから、私の周りには、それまで出会うことのなかった人たちが増えました。
学校の先生。
医療機関の方。
児童相談所や相談支援の方。
訪問看護の方。
放課後等デイサービスや、子どもの支援に関わる方たち。
もし子どもたちが、何の困りごともなく学校へ通えていたなら、私はこの人たちと出会わなかったと思います。
もちろん、出会わずに済む穏やかな道があったのなら、そのほうがよかったと思う日もあります。
けれど、大変な時間の中で出会った人たちは、私が知らなかった考え方や価値観を持っていました。
その一つひとつが、少しずつ私の見ている世界を変えていきました。
最初は、正しい答えを教えてくれる人を探していた
子どもの困りごとが増えた頃、私は正しい答えを探していました。
どうすれば学校へ行けるのか。
どう接すれば落ち着くのか。
どの支援を利用すればよいのか。
親として何をすれば間違わないのか。
誰かに相談すれば、明確な答えを教えてもらえると思っていたのです。
けれど実際には、同じ子どもの様子を見ても、人によって考え方は違いました。
学校では、集団の中でどう過ごすかを考える。
医療では、心や体の状態から考える。
福祉では、家庭も含めた暮らし全体を見る。
親である私は、毎日の表情や言葉から考える。
どれか一つだけが正しくて、ほかが間違っているわけではありません。
それぞれの立場から見えているものが違うのだと、少しずつ分かってきました。
「できるようにする」だけが支援ではなかった
以前の私は、支援とは、できないことをできるようにするものだと思っていました。
学校へ行けるようにする。
集団に合わせられるようにする。
気持ちを切り替えられるようにする。
困った行動を減らす。
子どもが社会に合わせられるようになることが、成長なのだと思っていました。
けれど、出会った人たちの中には、違う視点を持つ人がいました。
「できるようになることより、安心できることを先に考えましょう」
「本人が何に困っているのかを見てみましょう」
「今は動かす時期ではなく、休む時期かもしれません」
そう言われたとき、私はすぐには受け入れられませんでした。
休ませたら、もっと動けなくなるのではないか。
待っていたら、遅れてしまうのではないか。
不安のほうが大きかったからです。
それでも、無理に動かそうとするほど苦しくなる子どもの姿を見て、考え方が変わっていきました。
支援とは、子どもを周りに合わせることだけではない。
その子が安心していられる環境を、周りが一緒に探すことでもあるのだと思うようになりました。
真剣に考えてくれた人たちがいた
これまで、何人もの人に子どものことを相談してきました。
忙しい中でも時間を取り、話を聞いてくれた人。
すぐに結論を出さず、子どもの様子を何度も確認してくれた人。
私がうまく説明できないときに、言葉を一緒に探してくれた人。
子どもの困りごとだけではなく、母親である私の疲れにも気づいてくれた人。
「お母さんも休んでいいんですよ」
そう言ってもらったとき、私は自分が休むことを許されていなかったのだと気づきました。
親なのだから頑張らなければならない。
子どものためなら、どこまでも動かなければならない。
そんな考えが、自分の中に深く残っていたのだと思います。
誰かが真剣に考えてくれたことで、私一人で背負わなくてもいいと知りました。
支えになった出会いだけではない
すべての出会いが、あたたかいものだったわけではありません。
話を十分に聞いてもらえなかったと感じたこと。
子どもの行動だけを見て、決めつけられたように思ったこと。
親の関わり方に原因があるような言葉を受け、苦しくなったこと。
専門家の言葉だからこそ、深く傷ついたこともあります。
最初は、その出会いを「悪い出会い」としか考えられませんでした。
なぜ分かってもらえないのだろう。
なぜ子どもの気持ちを見てもらえないのだろう。
悔しさや怒りが残りました。
けれど、その経験があったからこそ、私は人に伝えることを覚えました。
何が起きたのか。
子どもはどう感じたのか。
家庭ではどのような様子なのか。
私たちは何を望んでいるのか。
黙っていても、分かってもらえるとは限らない。
肩書きのある人の意見が、いつもその子に合うとも限らない。
違和感を抱いた自分の感覚を、無視しなくてもいい。
そう考えられるようになったのは、うまくいかなかった出会いがあったからでもあります。
良い、悪いだけでは整理できない
人との関わりは、良いか悪いかだけでは分けられません。
そのときは救われた言葉が、あとになって違って見えることもあります。
反対に、当時は受け入れられなかった言葉の意味が、時間がたってから分かることもあります。
親身になってくれた人と、考え方が合わないこともありました。
厳しい言葉を受けたことで、自分の中にあった迷いに気づいたこともあります。
人は、一つの役割だけで存在しているわけではありません。
支援してくれる人。
教えてくれる人。
傷つける人。
気づきを与える人。
同じ人が、そのすべてになることもあります。
そう思えるようになってから、出会いを単純に評価しなくなりました。
もちろん、傷つけられたことを無理に感謝へ変える必要はありません。
嫌だったことは、嫌だったままでいい。
そのうえで、その経験から自分が何を知ったのかを考えることはできます。
子どもを通して、知らなかった世界を知った
発達特性について学ぶ中で、私はそれまで当たり前だと思っていたことを見直すようになりました。
毎日学校へ行くこと。
同じ年齢なら、同じようにできること。
大人の指示に従うこと。
みんなと同じ方法で学ぶこと。
以前は、それが普通だと思っていました。
できない場合は、本人が努力して近づいていくものだとも考えていました。
けれど、子どもたちを見ていると、その「普通」が誰にとっても同じではないと分かります。
音や声を強く感じる人がいる。
予定の変更に大きな不安を感じる人がいる。
言葉で伝えるまでに時間が必要な人がいる。
集団にいるだけで、想像以上に疲れる人がいる。
見た目では分からない苦しさがあることを、私は子どもたちから教わりました。
そのことを知ってから、子ども以外の人を見る目も変わりました。
うまくできないように見える人にも、外からは分からない事情があるのかもしれない。
強い言葉の奥に、余裕のなさや不安が隠れているのかもしれない。
すぐに判断するのではなく、一度立ち止まって考えるようになりました。
私の「普通」は、ずいぶん小さなものだった
以前の私は、自分の経験の中にあるものだけで、世の中を見ていました。
学校へ行き、働き、結婚し、家庭をつくる。
決められた道を大きく外れずに進むことが、安心につながると思っていました。
けれど、子どもの不登校や発達特性、支援との出会いを通して、人生にはさまざまな道があると知りました。
学校に行かない時間にも、子どもは育ちます。
集団の中では力を出せなくても、安心できる場所では豊かな表情を見せることがあります。
言葉でうまく説明できなくても、その人なりの方法で世界を感じています。
一つの場所に合わなかったからといって、その人の価値がなくなるわけではありません。
私が「普通」だと思っていたものは、たくさんある生き方の一つにすぎませんでした。
そう気づいたとき、子どもだけではなく、私自身も少し自由になりました。
人に頼ることは、弱さではなかった
私は長い間、自分で何とかしようとしてきました。
母親なのだから、私が子どもを理解しなければならない。
家庭のことは、家庭の中で解決しなければならない。
助けを求めることに、どこか後ろめたさがありました。
けれど、子どもたちの困りごとは、私一人の力で解決できるものではありませんでした。
学校の中で見える姿。
家庭で見える姿。
支援先で見える姿。
それぞれが違うからこそ、情報を持ち寄って考える必要があります。
人に頼ることは、責任を手放すことではありません。
一人では見えないものを、一緒に見てもらうことです。
そう教えてくれたのも、これまで出会った人たちでした。
失ったものがあっても、残ったものがある
この数年で、私はいくつかのものを失いました。
思い描いていた家族の形。
子どもが当たり前に学校へ通う日常。
頑張れば何とかなるという感覚。
以前の生活には、もう戻れません。
それを寂しく思う気持ちは、今もあります。
けれど、失ったものだけではありません。
子どものことを真剣に考えてくれる人たちとのつながり。
自分とは違う価値観を知る機会。
助けを求めることができるようになった自分。
目に見えない苦しさを想像しようとする気持ち。
そして、当たり前を疑い、自分に合った生き方を考える力。
失わなければ得られなかったと言い切るつもりはありません。
苦しい経験を、美しいものに変える必要もないと思っています。
ただ、失ったあとにも、手元に残ったものはありました。
それに気づけるようになるまでには、時間が必要でした。
人生に、厚みができた
何も知らなかった頃に戻りたいと思うことがあります。
子どものことで悩まず、支援先を探さず、学校とのやり取りに疲れない生活。
そのほうが、ずっと楽だったかもしれません。
それでも、今の私は以前よりも、人の痛みについて考えるようになりました。
すぐに答えを出さなくなりました。
同じ出来事でも、立場が違えば見え方が変わることを知りました。
正しさだけでは、人の心を支えられないことも学びました。
こうした変化を、成長と呼んでよいのかは分かりません。
強くなったとも言い切れません。
ただ、人生に厚みができたように感じます。
うれしい、悲しいだけでは表せない感情。
良い、悪いだけでは整理できない人との関わり。
答えのない中で、考え続けた時間。
それらが少しずつ重なり、以前とは違う私をつくっています。
味わわずに済むなら、そのほうがよかったこともある
「大変な経験が人を成長させる」という言葉を、私は簡単には使いたくありません。
経験しなくて済む苦しさなら、経験しないほうがいい。
子どもが傷つかずに済むなら、そのほうがいい。
私自身も、もう少し穏やかな道を歩きたかったと思います。
苦しみには、必ず意味があるわけではありません。
乗り越えたから価値が生まれるとも限りません。
けれど、起きてしまったことの中で、私はたくさんの人に出会いました。
その人たちの言葉や姿勢、時には違和感や衝突から、知らなかった世界を見ました。
味わいたくなかったこともあります。
それでも、味わったからこそ分かるようになった感覚もあります。
その両方を、無理に一つへまとめなくてもいいのだと思います。
出会いが、私の世界を広げてくれた
発達特性のある子どもを育てることは、簡単ではありません。
今も悩みは続いています。
どの選択が子どもにとってよいのか分からず、迷う日もあります。
それでも、子どもたちと歩いてきた道の途中には、たくさんの出会いがありました。
心から支えてくれた人。
一緒に悩んでくれた人。
違う角度から考えることを教えてくれた人。
分かり合えず、私に自分の気持ちを言葉にする必要を教えた人。
どの出会いも、同じ意味を持っているわけではありません。
感謝だけでは語れない出会いもあります。
それでも、そのすべてが私の考え方に何かを残しました。
人は、出会う相手によって、少しずつ世界の見方を変えていくのだと思います。
私の人生は、思い描いていた形とは違うものになりました。
失ったものもあります。
けれどその道で、知らなかった価値観と出会い、自分の中になかった言葉をもらいました。
人生の彩りは、明るい色だけでできているわけではないのかもしれません。
悲しさや迷い、悔しさや違和感も重なり、その人だけの色になります。
この経験があってよかったと、まだ素直に言えないこともあります。
それでも、この道で出会った人たちによって、私の世界が広がったことは確かです。
大変だった。
失ったものもあった。
けれど、その中で得たものもありました。
その両方を抱えながら、今の私はここにいます。
