何もしていない日があると、私はすぐに不安になります。
今日は何も進んでいない。
家も片付いていない。
ブログも書けていない。
子どものことも、仕事のことも、考えたわりに何も形になっていない。
そんな日があると、心の中で「私は何をしているんだろう」と思ってしまいます。
でも最近、少し考えるようになりました。
何もしていないように見える日にも、もしかしたら意味があるのかもしれない、と。
今日は、「何もしていない日に価値はあるのか」ということを、自分の経験をもとに考えてみます。
何かしていないと、不安になる
私はたぶん、止まるのがあまり得意ではありません。
調べる。
考える。
書く。
相談する。
手続きをする。
家計を見直す。
子どもの支援を考える。
仕事のことを整理する。
何かしら動いている方が、安心するところがあります。
特にこの1年は、離婚、仕事、子どもの不登校、支援の調整、生活の立て直しなど、考えることも動くことも多い時間でした。
だからこそ、何も進まない日があると、急に不安になります。
立ち止まったら、全部が崩れるんじゃないか。
今やらなかったら、あとで困るんじゃないか。
私が止まったら、生活も止まるんじゃないか。
そんなふうに感じることがあります。
「何もしていない」の中で、頭はずっと動いている
外から見ると、何もしていない日があります。
ただ座っている。
スマホを見ている。
ぼーっとしている。
横になっている。
家事も最低限しかしていない。
でも、頭の中は止まっていないことが多いです。
子どもの将来のこと。
学校とのやりとり。
生活費のこと。
仕事の段取り。
自分の体調。
支援者に何を相談するか。
これからどうやって暮らしていくか。
表面上は何もしていなくても、心の中ではずっと処理が続いています。
だから、何もしていない日を「怠け」と決めつけるのは、少し違うのかもしれません。
その日は、心と頭が見えないところで整理をしている日なのかもしれない。
最近は、そう考えるようになりました。
何もできない日は、疲れが遅れて来ている日かもしれない
大きな出来事が続いているとき、人はその場では意外と動けます。
手続きをしなければいけない。
仕事に行かなければいけない。
子どもの対応をしなければいけない。
役所や学校に連絡しなければいけない。
そのときは、気持ちを止めてでも動きます。
でも、少し落ち着いたあとに、遅れて疲れが来ることがあります。
急に何もしたくなくなる。
横になっても回復しない。
小さな家事が重く感じる。
頭では分かっているのに、体が動かない。
それは、意志が弱いからではなく、体と心が「もう少し休ませて」と言っているのかもしれません。
私はこれまで、疲れている自分に厳しすぎた気がします。
休んでいるのに、「まだできるはず」と追い立てていました。
でも本当は、疲れた日には疲れた日なりの価値があるのだと思います。
何もしない時間に、自分の本音が出てくる
忙しいときは、考えなくて済むことがあります。
次の予定。
次の連絡。
次の家事。
次の支払い。
次の対応。
目の前のことに追われている間は、自分の本音が後ろに下がります。
でも、何もしていない時間ができると、急に心の奥の声が聞こえてくることがあります。
本当は疲れていた。
本当は誰かに助けてほしかった。
本当は、少しだけ何も考えたくなかった。
何もしていない日は、こういう本音が出てくる日なのかもしれません。
それは少しつらいけれど、必要な時間でもある気がします。
子どもの「何もしていない日」を見守る難しさ
自分だけではなく、子どもにも「何もしていない日」があります。
学校に行けない。
勉強もしない。
外にも出ない。
動画を見ている。
寝ている。
返事も少ない。
親としては、不安になります。
このままでいいのかな。
何かさせた方がいいのでは。
生活リズムが崩れるのでは。
将来困るのでは。
でも、自分の休む日を考えるようになってから、子どもの「何もしていない日」も少し違って見えるようになりました。
もしかしたら、本人の中では回復している途中なのかもしれない。
外に出る力をためているのかもしれない。
言葉にできない疲れを、静かに処理しているのかもしれない。
もちろん、何もしない状態が長く続くと心配です。
生活リズムや健康、安全は見ていく必要があります。
それでも、「何もしていない=何も起きていない」とは限らない。
そこは忘れないようにしたいです。
価値がある日は、成果が出た日だけではない
私たちは、どうしても成果がある日を「価値がある日」と思いがちです。
片付いた日。
仕事が進んだ日。
記事を書けた日。
子どもが少し動けた日。
体重が減った日。
予定通りに回った日。
そういう日は、確かに分かりやすく達成感があります。
でも、人生は成果のある日だけでできているわけではありません。
何もできなかった日。
泣いて終わった日。
横になっていた日。
考えがまとまらなかった日。
最低限の家事だけで終わった日。
そういう日も、人生の中にあります。
そして、その日があるから、次に動けることもあります。
「今日は回復の日」と名前をつける
何もしていない日を、ただの失敗日にすると苦しくなります。
だから私は、できるだけ名前を変えたいと思っています。
何もできなかった日。
ではなく、回復の日。
止まってしまった日。
ではなく、整え直す日。
怠けた日。
ではなく、心と体の充電日。
言い換えただけで現実が変わるわけではありません。
でも、自分への責め方は少し変わります。
自分を責め続けるより、
「今日は回復の日だった」と置いておく方が、明日に戻りやすい気がします。
何もしない日にも、小さな役割がある
何もしていないように見える日にも、いくつかの役割があるのかもしれません。
疲れを自覚する。
本音に気づく。
頭の中を整理する。
次に動くための余白を作る。
自分の限界を知る。
子どもの状態を観察する。
「今は無理」と認める。
どれも、外からは見えにくいことです。
でも、生きていく上では大切なことだと思います。
動く日だけが前進ではありません。
止まることで、崩れずに済む日もあります。
それでも、罪悪感はすぐには消えない
もちろん、そう考えたからといって、罪悪感が全部なくなるわけではありません。
何もしていない自分を、つい責める日もあります。
もっとできたはずだと思う日もあります。
周りと比べて、落ち込むこともあります。
でも、そのたびに少しずつ戻れればいいのだと思います。
今日は何もできなかった。
でも、呼吸はしていた。
子どもを見ていた。
最低限の生活は続いていた。
心と体が、回復しようとしていた。
そうやって、小さく見直す練習をしていきたいです。
まとめ:何もしていない日も、人生の中に必要な日
何もしていない日に価値はあるのか。
今の私は、あると思いたいです。
成果は出ていなくても、回復している日かもしれない。
外からは止まって見えても、内側では整理が進んでいる日かもしれない。
何もしないことで、これ以上崩れずに済んでいる日かもしれない。
人生は、動いている日だけでできているわけではありません。
止まる日。
休む日。
何もできない日。
それでも、暮らしは続いていきます。
今日が何もできなかった日でも、
それは人生から外れた日ではない。
ちゃんと、人生の途中にある日です。
今日は、この記録をここに置いておきます。
