才能を伸ばしたい。
子どもの良いところを守りたい。
できるなら、ちゃんと育てたい。
そう思っているのに、現実は、毎日そんなにきれいじゃない。
感情が荒れる日。
学校の話ができない日。
本人が傷ついた顔をしている日。
親の私が、言葉を選べずに後悔する日。
才能って、能力の話だと思っていたけれど、
子どもを見ていると、そうじゃない気がしてくる。
どれだけ頭の中に世界があっても、
どれだけ感性が鋭くても、
安心できる場所がないと、力は外に出てこない。
だから最近は、才能の話をする前に、
感情教育と非認知能力が必要なんじゃないか、と考えるようになりました。
感情教育は「我慢」じゃなくて、「名前をつける」こと
感情教育という言葉を聞くと、
「怒らないようにする」「我慢する」みたいに思ってしまうことがある。
でも私は逆だと思っています。
「今、不安なんだ」
「本当は悲しかった」
「怒ってるみたいだけど、根っこは怖かった」
感情に名前がつくと、
自分と感情の間に少し距離ができる。
飲み込まれなくなる。
少しだけ、戻ってこられる。
親の私も同じで、
「今、焦ってる」
「今、余裕がない」
って言葉にできると、少しだけ立ち止まれる。
非認知能力は、派手じゃないけど人生に効く
テストの点数には出ない。
でも、生活の中では決定的に効く力がある。
- 気持ちを切り替える
- 助けを求める
- 失敗しても立て直す
- 自分の状態に気づく
- 無理をしすぎずに続ける
こういう力が、子どもにも、親にも必要になる。
発達特性がある子の場合、
「学ぶ前に、安心できる状態が必要」という場面が増える。
やる気がないのではなく、安心が足りない。
理解できないのではなく、負荷が大きすぎる。
そう思えると、
責める矛先が少し変わる。
噛み合わないのは、言葉じゃなくて「前提」かもしれない
学校や支援者と話していて、
同じ言葉を使っているのに噛み合わないときがある。
「自立」
「頑張る」
「慣れる」
どれも正しい言葉なのに、
頭の中で指しているものが違う。
誰かは「一人で全部できる」を自立と言い、
誰かは「支援を使いながら暮らせる」を自立と言う。
同じ言葉でも、前提がズレると、
会話は進まない。
だから私は最近、
その言葉は、どういう意味の言葉として使っていますか
と確認することを覚えました。
怖いけど、必要だった。
抽象と具体を行き来するのは、私の癖で、救いでもある
私はたぶん、抽象で考える癖がある。
構造を見たくなる。
整理したくなる。
でも相手が具体で話したいとき、
抽象は「話が飛んでいる」みたいに聞こえる。
逆に、具体しかないとき、
全体像が見えなくて苦しくなる。
だから私は、橋をかける。
抽象 → 具体例 → 抽象
「見通しが必要」だけじゃなくて、
「朝、予定が分からないと不安が強い」
「だから紙で確認できると落ち着く」
そういうふうに、言葉を丁寧にする。
この作業は面倒だけど、
私の家を守るための翻訳だと思っています。
才能を伸ばすって、無理に引き出すことじゃない
才能を伸ばすとは、
何かを無理にやらせることではない。
その子の中にある興味や感性が、
安心して外に出てこれるようにすること。
感情に名前をつける。
助けを求める言葉を持つ。
休むタイミングを知る。
できたことを拾う。
地味なことばかりだけど、
たぶんそれが一番効く。
今日の結論:才能より先に「安心」を整える
才能の話をしたいのに、
現実はまず「安心」の話になる。
でも、それでいいのかもしれない。
安心があると、力が出る。
力が出ると、自分を嫌いにならない。
自分を嫌いにならないと、続けられる。
才能の前に、安心。
その順番を、私は忘れないようにしたい。
今日は、この記録をここに置いておきます。
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