「どうやって子どもを育てるか」より、
最近はずっと別の問いのほうが大きい気がしています。
どうやって自分の人生と、子どもの人生を、両方大切にしながら生きるか。
これって、40代の今だけの話じゃなくて、
50代、60代になっても形を変えながら続いていく問いなんだろうなと思います。
今日は、その問いのまわりにあることを、少し整理して置いておきます。
私はたぶん「研究者」「記録者」「観察者」寄りの人間
子どもの頃から、図書館が好きでした。
本を借りて、読むだけじゃなく、ノートにまとめていました。
「理解したい」
「整理したい」
そういう欲求が、ずっと強かったんだと思います。
いま思うと、昔からやっていることはあまり変わっていません。
対象が、絵本から人生になっただけ。
発達のこと。
不登校のこと。
離婚のこと。
制度のこと。
お金のこと。
調べて、まとめて、残して、役に立てる形にしてみる。
それはたぶん、私が私を保つための方法でもあります。
親子で「時代が違う」という、埋めにくい差がある
子どもたちが育つ時代は、私が育った時代とほぼ別世界です。
私の子ども時代は、外遊びや地域のつながりが当たり前でした。
今は、スマホ、SNS、YouTube、情報過多。
正しさも価値観も、多様で、揺れやすい。
それに加えて、子どもたちには発達特性がある。
つまり親子の間には
- 時代が違う
- 環境が違う
- 特性が違う
という三重構造がある。
理解できないことがあるのは、当然なんだと思います。
むしろ、全部理解しようとすると、こちらが壊れやすい。
「理解する」から「尊重する」へ、少しずつ移行していい
若い頃は、理由を見つけたくて仕方がなかった気がします。
「なぜそうなるの?」
「どうしたら変わるの?」
「どこが原因?」
でも、ここから先の人生は、
理由を全部わからなくても、その人の世界を尊重する、に少し移行してもいいのかもしれません。
親子でも、同じ星には住んでいない。
それぞれ別の宇宙。
全部理解するのは不可能。
でも、尊重はできる。
この言い換えだけで、呼吸が少し深くなる日があります。
幸せは大きくなくていい、と思うようになった
「問題が全部解決した状態」を幸せに設定すると、
いつまでも幸せになれない気がします。
だから最近は、幸せの定義を小さくしてみています。
- 朝、コーヒーを飲めた
- 風が気持ちよかった
- 子どもが笑った
- 子どもが好きな曲を教えてくれた
- 記事を一本書けた
- 誰かが読んでくれた
そういう瞬間を拾う。
人生後半は、大きな成功より、
小さな満足を集める時間なのかもしれません。
「育てる人」から「見守る人」へ
親は、30代~40代まで前に立ちがちです。
正解を探して、道を整えて、背負ってしまう。
でも50代以降は、少し後ろに下がってもいい。
子どもたちの人生を歩かせる。
困ったら支える。
でも背負わない。
この距離感が、今の私には必要な気がしています。
毎日の心がけは、3つだけでいい
全部やろうとすると続かないので、私は3つに絞りたいです。
① 今日よかったことを3つ書く
どんなに小さくてもいい。
「悪くなかった」を増やす練習。
② 子どもを変えようとしない日を作る
その日は、観察だけ。
評価しない。結論を出さない。
③ 自分だけの楽しみを持つ
子ども抜きの「私」を育てる。
読書でも、散歩でも、ブログでもいい。
自分だけの時間を、失わない。
最後に:答えはたぶん、外じゃなく中にある
私はよく「どうしたらいいですか」と考えます。
でも最近は、答えはすでに自分の中にある気もしています。
なぜなら、長い時間、考え続けてきたから。
子どものことも、自分のことも、人生のことも。
目指すのは、完璧な母親でも、完璧な支援者でもなく、
「今日は悪くなかったな」と思える日を少しずつ増やすこと。
そしていつか、季節の風を感じながら、
「いろいろあったけど、案外いい人生だったな」
と思えたら、それで十分だと思います。
今日は、この記録をここに置いておきます。
