最近、ふと考えたことがある。
私たち親子3人を海の生き物にたとえるなら、
長女は「クラゲ」で、私と次女は「回遊魚」なのかもしれない。
そんなことを思った。
長女は、クラゲみたいに、
自分からどんどん前へ進んでいくタイプではない。
周りの空気や環境の変化を敏感に感じながら、
そのときの流れの中で、自分がいられる場所を探している。
学校へ行くこともそうだった。
周りと同じように進むことを求められると、苦しくなる。
「どうして動けないんだろう」
「このままで大丈夫なのかな」
親である私は、何度も心配した。
けれど、最近は少し違う見方ができるようになった。
もしかしたら長女は、動いていないのではなくて、
ちゃんと自分を守りながら、
自分に合う流れを待っているのかもしれない。
クラゲは、回遊魚のようには泳がない。
でも、だからといって、海の中で必要のない存在ではない。
ただ、生き方が違うだけだ。
一方で、私と次女は、回遊魚だ。
立ち止まってじっとしているよりも、動いていることで自分を保つ。
私は、考える。
調べる。
誰かに話す。
文章を書く。
「次はどうしよう」と考えて、できることをひとつずつ探していく。
次女もまた、外へ向かってエネルギーを出すことが多い。
嬉しいことも、苦しいことも、自分の中だけにしまっておくことが難しい。
動いて、伝えて、ぶつかって。
そうやって、自分の居場所を確かめているように見える。
たぶん私たちは、止まることで苦しくなる回遊魚なのだと思う。
だから私はこれまで、無意識のうちに長女にも
「少し動いたほうが楽になるよ」
と思っていたのかもしれない。
外に出てみたら。
誰かと話してみたら。
学校の近くまで行ってみたら。
何かひとつやってみたら。
それは、回遊魚である私には効果のある方法だった。
でも、クラゲには、クラゲの生き方がある。
無理に回遊魚にしようとしたら、
きっと苦しくなってしまう。
逆も同じなのだと思う。
「少し休んだら」
「何も考えなくていいよ」
そう言われても、動いていることで自分を保っている人にとっては、
立ち止まることのほうが苦しい場合もある。
人はみんな、同じ方法では回復しない。
同じ家族の中にいても、それぞれ違う。そして最近は思う。
違うからこそ、それぞれに役割があるのかもしれない、と。
動く人がいる。
立ち止まる人がいる。
声に出す人がいる。
静かに感じ取る人がいる。
前へ進もうとする人がいて、
「ちょっと待って」と立ち止まらせてくれる人もいる。
家庭の中でも。
社会の中でも。
どちらか一方だけでは、きっと成り立たない。
私と次女がどんどん泳いでいるとき、長女の存在が、
「そんなに急がなくてもいいんじゃない?」
と教えてくれることがある。
そして長女が動けなくなったときには、私や次女が少し先を泳いで、
「ここにも道があるよ」
と知らせることができるかもしれない。
誰かと同じにならなくていい。
同じ速さで進まなくてもいい。
同じ方法で社会とつながらなくてもいい。
クラゲにはクラゲの役割があって、
回遊魚には回遊魚の役割がある。
私たち3人は、これまでずっと、
「普通の家族にならなければ」
「みんなと同じようにできなければ」
そんなことに苦しんできたような気がする。
でも今は、違う生き物が一緒に暮らしている。
それくらいに考えてもいいのかもしれないと思う。
お互いの生き方を変えようとするのではなく、
「あなたは、そうやって生きるんだね」
と知っていく。
そして、それぞれが無理をしすぎない距離で、同じ海を生きていく。
家族だからといって、同じ泳ぎ方をしなくてもいい。
それぞれの泳ぎ方でいい。
ずいぶん違う3人だけれど、だからこそ、この家族の中で、
それぞれにできることがあるのだと思う。
違いは、欠けているものではなくて。
もしかしたら、家族がお互いを支えるために必要なものなのかもしれない。
今日も私たちは、それぞれの方法で、同じ海の中を生きている。
